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カテゴリ:●学校・講座( 13 )
表現の糧学校 〜思考のヒフ感覚 12月開校!
表現の糧学校 〜思考のヒフ感覚〜

会 場    アサヒ・アートスクエア
       (東京都墨田区吾妻橋1-23-1 4F)
アクセス   東京メトロ銀座線「浅草駅」4番出口より徒歩5分
       都営地下鉄浅草線「浅草駅」A5番出口より徒歩10分
       都営地下鉄浅草線「本所吾妻橋駅」A3出口より徒歩6分
       東武線「浅草駅」より徒歩6分
日 程    前期:12月5日(水)・6日(木)・7日(金)
       後期:12月26日(水)・27日(木)・28日(金)
時 間    各回とも 19:00〜21:00
料 金    1講座|一般1,500円、学生・会員1,000円
       3講座|一般4,200円、学生・会員2,700円
       全通し|一般8,000円、学生・会員5,000円
       ●学生は、当日学生証の提示が必要です。
       ●経済的に支払い困難な方はご相談下さい。
       ●料金は当日お支払い下さい。
       ●3講座・全通し料金は、初回時にお支払い下さい。
       ●原則として払い戻しには応じかねます。
       ●急遽内容が変更になる場合があります。
定 員    50名[要事前予約]
予約先    アサヒ・アートスクエア
       氏名、電話番号またはメールアドレス、
       希望の講座をお知らせ下さい。
       E-mail aas@arts-npo.org
       TEL 090-9118-5171

主 旨
アートプロデュースの現場では、実践的な作業のノウハウも必要になりますが、それと同じほど、現代社会の中でアートの可能性をいかにとらえているのか、またその可能性を社会のいかなる領域に、いかにして開いていこうとしているのか、そういった「基本姿勢」がきわめて重要になります。こうした基本姿勢が確立されていなければ、起こりうるさまざまな状況と向かい合い、自身の行為の必然性を、説得力をもって表現できなくなるからです。
表現の糧学校は、アートプロデュースを実践する前に、表現について考えるための学校です。
前期は、《学ぶ講座》として「ジェンダー」「資本制」「公共性」といった現代社会に言及するうえで有効な三つの概念を学び、後期の《考える講座》では、芸術/アートの現場で社会と向き合っている方々をお招きし、一緒に考察を深めていきます。

校長挨拶
私はここで、ちょっと立ち止まって、表現の力について考えてみたいと思っています。太古の壁画や宗教上の聖典から昨今の現代美術や工業デザインに至るまで、この世に生まれ出で、いまも日々生まれ続ける無数の表現によって、これまで世界は大きく変化してきました。表現が世の中に出て、多くの人々の目に触れるとき、良くも悪くも世の中は変わります。そして、芸術/アートは、そのような表現活動のまさに最先端であり、壮大な実験であり、さまざまな可能性が探られる現場です。そこには、これからの社会を考え、変えるための、無数の可能性がひらかれているはずです。
全体化してゆく今日の世界には、格差や分断、そしてそれらが引き起こす深刻な人間不信が充溢しています。この混迷の中で、 芸術/アート、表現の最先端にいる人々の「責任」はこれまでになく高まってきている。私はそう考えています。現在、表現について考えると言うことは、社会の諸問題について考えると言うことを同時に意味するでしょう。換言すれば、表現が社会と距離をおくとき、それはこの世界の現状を「肯定する」ことを意味せ ざるを得ないのです。
いまこそ学びが必要ではないでしょうか。
私も含め、表現に携わる人々が、その「責任」を果たすために、いまもっとも求められていることは社会や世界について学び、考え、そして日々実践することではないでしょうか。
『表現の糧学校〜思考のヒフ感覚〜』では、そのために三つのキーワードを用意しました。「ジェンダー」「資本制」「公共性」です。しっかりと学び、議論し、日々の実践をエンパワーするような学校を、今年も開催したいと考えています。
学校長 山田創平


講座内容
《前期|学ぶ講座》
現在の社会について言及するうえで有効な、三つの概念「ジェンダー」「資本制」 「公共性」

第一講「公共性」
講師=五野井 郁夫
日時=2012年12月5日(水) 午後7時から午後9時

内容=私たちを覆う制度やシステムが巨大であればあるほど、私たちはこれから先どのように生き、これからの社会をどのように構想すべきなのか、途方に暮れてしまいます。ひろがる格差や、すすまぬ富の再分配。議会は社会のごく一部の人々の利益のみを守ろうとしているかのようです。教育やエネルギー行政はその問題の核心さえ見えず、市民は闇の中で、巨大な社会の流れに身を任せるしかないかのようです。そして気付くと人々は、ますますばらばらで孤独になっていきます。そのような時こそ原点に返って、今隣にいるその人とどの様な関係をつくるべきなのかを考えるべきなのかもしれません。これからの人間関係を考え、これからの社会の可能性を考えるために、本講義では公共性という概念の基礎とその可能性について具体的に考えます。
五野井 郁夫(ごのい いくお)
高千穂大学経営学部准教授、国際基督教大学社会科学研究所研究員。1979年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了、博士(学術)。専攻は政治学・国際関係論。世界中のフェスやパーティ、現代美術の国際展覧会、そしてストリートでの民主主義と公共性をめぐる芸術表現が現行秩序の変更に与える影響を研究。立教大学法学部助教を経て2012年より現職。著作に『デモとは何か−変貌する直接民主主義』(NHK出版)など。

第二講「ジェンダー」
講師=竹田恵子、山田創平
日時=2012年12月6日(木) 午後7時から午後9時
内容=グローバル化、格差や貧困、戦争や紛争、差別やヘイトクライム…。 世界を覆うそれら諸問題は資本制と深い関わりを持っています。そしてその資本制を効率的に機能させるための社会システムとしてジェンダー(社会・文化的な性のありよう)があります。ジェンダーは資本制、民主制、公共性といった現代社会の諸システムについて学ぶとき前提となる概念です。むしろこう言った方が良いかもしれません。ジェンダーについての検討無しに、現代社会の諸システムを理解する事はできないのです。しかしながら学問としての「ジェンダー論」は社会の中で決して広く学ばれているとは言えない現状があります。本講義では以上の問題意識に立ち、まずジェンダーについて基礎から学びます。
竹田恵子(たけだ けいこ)
立教大学兼任講師(身体人類学)、NPO法人アートNPOリンク理事。他論文に「1990年代日本におけるHIV/エイズをめぐる対抗クレイムのレトリック分析−古橋悌二の言説を中心に」『年報社会学論集第24号』等。

山田創平(やまだ そうへい)
京都精華大学共通教育センター導入教育部門長・人文学部専任講師。1974年生まれ。名古屋大学大学院修了。文学博士。専門は地域研究。ブレーカープロジェクト、東山アーティスツプレイスメントサービス実行委員、NPO法人アートNPOリンク理事、AAF選考委員。著書に『ミルフィユ04 今日のつくり方』(共著・赤々舎、2012)など。

第三講「資本制」
講師=渡邊 太
日時=2012年12月7日(金) 午後7時から午後9時
内容=資本制や資本システムは、すでに私たちの生活領域を完全に覆っており、そこから逃れることは不可能であるようにも思えます。デイヴィッド・ハーヴェイは「かつて自由は政治的自由を意味していたが、新自由主義の世界では、自由は市場と貿易の自由を意味する」と語りました。市場と貿易の自由の結果、ごく一部の金 持ちは際限もなく金持ちになり、大多数の貧しい者はますます貧しくなるでしょう。そのような社会で、貧者はその生存そのものが危機に直面しかねません。つまり新自由主義的の自由は、その自由の名の下に大多数の人々の生存の自由を奪っているのです。私たちが生きる社会はすでにそのような段階に立ち至っていま す。本講義では、マルクスから新自由主義に至る資本制の基礎をふまえ、これからの社会を生きる私たちが、どのようにその巨大なシステムと対峙すればよいのかを考えます。
渡邊 太(わたなべ ふとし)
専門は文化社会学・宗教社会学。大阪国際大学講師。NPO法人地域文化に関する情報とプロジェクト、NPO法人日本スローワーク協会、国際脱落者組合(International NEET Union)にも関わる。文化の実験を通じた共同性の構築、社会運動のネットワーク、人が生活するなかで生まれるねじれとよじれに関心をもつ。著書に『愛とユーモアの社会運動論』(北大路書房、2012)、『聖地再訪生駒の神々』(共著、創元社、2012)、『カルトとスピリチュアリティ』(共著、ミネルヴァ書房、2009)など。


■《後期|考える講座》
ダイアログ | 芸術/アートの現場から三つの概念を俯瞰する

第四講「アートにみる家父長制」
対談=ブブ・ド・ラ・マドレーヌ × 芹沢高志
日程=2012年12月26日(水) 午後7時から午後9時
内容=アートプロデュースとはなんとも矛盾した言葉です。おそらく「アート」とは、人類のやむにやまれぬ思いの表れであるという意味で個人的なものであると言えるでしょう。一方で「プロデュース」とはそれら個人的な物事を市場に位置づけ、社会化し、家父長的に組織する作業ですから、「アートプロデュース」とは実のところ方向性の異なる二つの言葉が合わさった妙な表現であると言えます。アートに偏重すれば社会と距離ができ、プロデュースに偏重すれば資本の論理に回収され 表現は無害なものになりかねません。昨今多用されるアートプロデュースという言葉には、そのような矛盾に対する自省や思考がどれほどあるでしょうか。原点に立ち返って考えます。
ブブ・ド・ラ・マドレーヌ
1961年大阪市生まれ。現代美術作家。国内外のアーティストとの共同制作多数。HIV/エイズやセックスワークに関するコミュニティ・ソーシャルワークにも携わる。2012年秋に都市社会学者の山田創平らとのユニットによる新作「水図」を別府にて発表。京都造形芸術大学ASP学科非常勤講師。

芹沢高志(せりざわ たかし)
1951年生東京生まれ。1989年、P3 art and environmentを設立。以後、現代美術、環境計画を中心に、数多くのプロジェクトを展開している。アサヒ・アート・フェスティバル事務局長。「デメーテル」(2002) 総合ディレクター。「横浜トリエンナーレ2005」キュレーター。「混浴温泉世界」(2009、2012)総合ディレクター。

第五講「アートと資本制」
対談=イルコモンズ/小田マサノリ × 佐藤知久
日時=2012年12月27日(木) 午後7時から午後9時
内容=優れた表現とは、それがわかりやすい形であるかないかに関わらず、原理的に社会の規範を逸脱せざるを得ません。この逸脱はあるときはまさにその「他との違い」それ自体により資本市場で富を生み、またあるときには「社会の規範から逸脱する」がゆえに抑圧され無視されます。アーティストとはその双方の領域を絶妙なバランスで行き交う人のことかもしれません。資本主義はアートや表現にとって、可能性を与え、同時に可能性を奪う、しかしながらそこから立ち去ることはできない「危険な隣人」なのかもしれません。資本主義社会におけるアートの可能性、アーティストの役割と責任について考えます。
イルコモンズ/小田マサノリ(おだ まさのり)
1966年福岡生まれ。現代美術家、文化人類学者、メディア・アクティヴィスト、一橋大学大学院社会学研究課博士課程単位取得退学、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所特任研究員、中央大学兼任講師。最近の活動:アトミックサイト、怒りのドラムデモ、首都圏反原発連合

佐藤知久(さとう ともひさ)
京都文教大学総合社会学部准教授。1967年生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程退学。博士(人間・環境学)。文化人類学を専攻。Social Kitchen Working Group参加中。論文に「社会運動と時間 アクトアップにおけるエイズアクティビズムの生成と衰退」(西井凉子編『時間の人類学』世界思想社、2011)他。

第六講「アートと公共性」
対談=砂連尾 理 × 照屋勇賢
日時=2012年12月28日(金) 午後7時から午後9時
内容=家父長制や資本制といった社会を構成する権力構造と、アーティストやアートプロデュースの現場はどのような関係を結んでゆけるのでしょうか。表現によって権力に異議申し立てを試みる営為はそもそもアートなのでしょうか。また逆に社会問題や権力に対して何らアクションを起こさないアートはすでにその存在意義を失っているのでしょうか。アートは「個人の思い」を出発点にして実現が試みられる表現様式です。しかし、その表現を誰かが目にし、耳にし、触れた瞬間から、その表現ははからずも社会の中に位置づけられ、社会を変えてゆく可能性を持ちます。アートと社会との関係、別の言い方をすれば表現が社会を変えるということ、表現が新しい市民社会を構想するということの今日的意味について考えます。
砂連尾 理(じゃれお おさむ)
1965年大阪市生まれ。振付家/ダ ンサー。舞台活動だけでなく、障がいを持つ人や老いた人、臨床哲学者、インタラクティブメディア・アーティスト、ロボット工学者等とプロジェクトを行う。 現在、宮城県名取市閖上地区の避難所生活者の声を集め、アーカイブ化、舞台化する計画を進行中。立命館大学、神戸女学院大学非常勤講師。

照屋勇賢(てるや ゆうけん)
1973年沖縄生まれ、ニューヨーク在住。ニューヨークのスクール・オブ・ヴィジュアルアーツ修士課程修了。世界各地の展覧会に参加し、国内外で評価される。2002年オールドリッチ現代美術館にて新人賞受賞。2005年、ニューヨークのPS1にてGreater New York 2005や横浜トリエンナーレ等で注目を集める。2011年、モスクワビエンナーレ、2012年にはシドニービエンナーレに参加。

主 催    NPO法人アートNPOリンク
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by artsnpolink | 2012-10-28 14:30 | ●学校・講座
マレーシアの家プロジェクト
昨年、AAF学校で招聘した、ファイブ・アーツ・センター(クアラルンプール)が関係するアートプロジェクトのドキュメンテーション映像が届きました。
やばい面白いので、ぜひご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=z2xa6BNJNGE

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by artsnpolink | 2011-04-26 00:00 | ●学校・講座
AAF学校in大阪、定員間もなく!
AAF学校in大阪「モヤモヤ読書」の定員がすべて間もなくで終了となります。
なお、最終日12月11日「悲しき熱帯」は、定員となりましたので締め切りとさせていただきます。
キャンセル待ちのみ受付させていただきます。
参加をご予定の方はお早めにお申し込みください。
http://arts-npo.org/aafschool2010_osaka.html
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by artsnpolink | 2010-11-10 15:10 | ●学校・講座
AAF学校in大阪
先週末、AAF学校in近江八幡が終わったばかりですが、早速AAF学校in大阪のチラシが納品されました!!!
AAF学校in大阪の内容はこちら↓

AAF学校in大阪・共同独学のすゝめ「モヤモヤ読書」

レッツ・モヤモヤ!
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by artsnpolink | 2010-10-21 14:47 | ●学校・講座
AAF学校in近江八幡
琵琶湖に浮かぶ有人島、沖島でのAAF学校を終えました。
最後の発表会では、島外からも家族連れが見学に来てくださいました。
ひょうたんからKO-MAは、今後も沖島での活動を継続していくそうで、楽しみです。
みなさんおつかれさまでした。
そして、来てくださった方、参加してくださった親子のみなさん、どうもありがとうございました!

AAF学校in近江八幡の詳細はこちら↓

沖島の影絵をつくろう!

沖島では、事前の調査やヒアリングからはじめ9月と今回と計4日間のワークショップを、子どもたち対象に実施しました。

まずは、沖島でみつけたさんまちゃん(ちなみに、大阪の友達は「さんま師匠」と呼んでいます)。
あ、アサヒビールじゃない!(汗)
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事務局注)AAF学校は、アサヒビールの特別協賛を得て実施しています。
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ワークショップでは、沖島コミュニティセンター(自治公民館)を会場に、島の子どもたちと島外の子どもたちとが、バヤンガンズの小谷野さんたちと一緒に影絵を創作しました。
テーマはズバリ、沖島。
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背中に傷を持つ訳あり亀や、、、
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沖島に生息する、沖島キリンなど、沖島ネタが創作されていきます。
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これは実際に琵琶湖周辺に生息するワシなど、たくさんの影絵がつくられました。
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沖島の竹を楽器にして演奏も。

見学にきた大人たちは、まちあるきならぬ「沖島さんぽ」を体験していただきました。
滋賀県や京都、遠くはフランスの方まで参加され、のんびり"なにもしない"散歩を楽しんでいただきました。
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そしてワークショップの発表会。
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たくさんの方にご来場いただきました。
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子どもたちがつくった影絵をもとに、小谷野さんが即興でストーリを組み立てます。沖島の歴史や、沖島資料館で見た50年前の沖島の風景から最近実際に島まで泳いできたというイノシシまでをも盛り込んだ、壮大なアドベンチャーになりました。
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今回をきっかけに、沖島ではこれからも、ひょうたんからKO-MAや中間支援センターの方々が地域の魅力づくりに取り組まれるということです。
期待大!

そうそう、沖島といえば、琵琶湖の恵みをつかった料理がたいへんおいしい!
鮎の佃煮や南蛮漬け、このえび豆も超絶絶品でした!
沖島漁港で買えるので、沖島訪問の折りにはぜひどうぞー。
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by artsnpolink | 2010-10-18 14:49 | ●学校・講座
日本で唯一の淡水湖に浮かぶ有人島
今日は、琵琶湖に浮かぶ有人島、沖島に来ています。
沖島には、バヤンガンズのメンバーと、NPOひょうたんからKo-Maの藤田さん、アサヒビールの根本さんとともに、10月に開催予定のAAF学校in近江八幡の下見と打合せの目的で来島しました。
近江八幡にある堀切港から10分ほどの島。
島民はほぼ漁業に従事しています。
島民は450人ほど。
島には小学校もあり、10名の子どもたちが通っています。
AAF学校in近江八幡では、バヤンガンズのメンバーによる影絵のワークショップを開催する予定。
いまから奥津島神社に向かうので、詳細はまた後日。
みなさんお楽しみに!
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by artsnpolink | 2010-09-01 13:33 | ●学校・講座
AAF学校2010
AAF学校2010が間もなく始まります。

東京は、8月23日と9月13日です。
AAFのサイトに詳細が掲載されていますのでぜひぜひご覧&ご参加ください。
んで、リンク事務局のインタビューもありますので、よ、よ、よければどうぞ。
http://aas.arts-npo.org/office/?p=1235

さて、今年のAAF学校ですが、東京のみならず、大阪、近江八幡、洲本(淡路島)の関西3カ所でも開催が予定されています!!!
ここ数日はその打合せでてんてこ舞いになっていますが、きっと楽しい企画に違いないので、関西の方はぜひご参加ください。
詳細はもう間もなく、間もなくです。(って、いつ?)
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by artsnpolink | 2010-08-13 19:12 | ●学校・講座
AAF学校2009第七回「芸術とメディア」
AAF学校2009
第七回「芸術とメディア」
講師 藤井光さん

藤井さんの講座ははじめに映像からはじまりました。それは、イスラエルがレバノンを空爆したときベイルートの映像で、アーティストは避難せずその場に残り、反戦を訴えるためにその状況を記録してつくった映像です。そして、この映像を背景にして藤井さんは、「芸術=メディア」の可能性を示唆します。しかしつぎに、「メディア=芸術」と言いがたい"揺らぎ"があると断ったうえで、これから話しをすすめたいと切り出しました。

戦後の日本のメディアの状況を、テレビ登場の変遷を交えながら紹介。あわせてアンデパンダン展など戦後美術の民主化の流れを平行軸で紹介し、マスコミュニケーションの中に、彼ら自身が意図的に入り込んでいく当時の潮流についてお話しされました。
そして、20世紀の日本の美術史において決定的なものとして、「大阪万博」をあげ、マスコミュニケーションを狙った大阪万博の中で、垂直的な啓蒙の方法論をとりながら自分たちの前衛芸術を社会化させていこうとする動きについて説明されます。
この動きと対比するように、前衛芸術が水平的なつながりをもつメディア・アクティビズムへと転用される例として、「プロダクトからプロセスへ」という当時の前衛芸術の風潮に触れ、水俣病問題でチッソ本社を告発する人々を、当時発売されたばかりのビデオを使って、彼らの運動を撮影しビデオ日記にしてその日のうちに、路上モニターでフィードバックできるよう情報を提供していた中谷芙二子氏と小林はくどう氏の活動を引き合いにだしました。これは、いわゆる前衛芸術家がある美学に基づいて行った行為によって、芸術家自身が市民になっており、アートということを使わずにコミュニケーションのあり方そのものを問題としたと指摘します。

つぎに、社会的な問題における当事者(身体に障害のある人自身や在日外国人本人等)が自ら自分たちのコミュニティに向けて映像番組をつくり発信していく、当事者しか知り得ない貴重な情報をシェアしていくというメディアの動きを紹介。韓国をはじめ諸外国では、これらが「パブリックアクセス」という制度として確立されており、公共のテレビチャンネルの中に、市民自らが作成した映像番組を入れていくという制度があるといいます。
このような市民オルタナティブなアクションは、インターネットやカメラなどの普及に伴い世界的に増加しており、『コミュニティ・メディア』と呼ばれています。
これは、歴史的に紐解いていくと、60年代後半ロンドンを中心に起こったコミュニティアートとつながります。ストリートに出てきたアーティストたちは、ホモセクシャルや黒人、外国人労働者や老人、障害をもつ人々など、社会的に弱者とされる状況を変えるためにアートが果たせる役割があると、さまざまなワークショップ行為を実践し、それらコミュニティと連携しながらアートが試みられてきました。
ここでは、自らが置かれている状況や状態、立場を言葉にしたり、絵にしたりして関係性をもっていなかった人々に向けて発信していくこと、それこそがコミュニティアートでした。

一方、日本では、プロダクトからプロセスへ、という流れが、またプロセスからプロダクトへと揺れ戻しが来た時代があり、あまり大きなムーブメントにならなかった。藤井さんは、その反動として起こっているのが、いま地域や街中でのアートではないかと分析します。
日本における特徴は、文化予算が文化から出て来るのではなく、農村振興や土木、港湾整備などから予算を獲得していることがあるといいます。
当初は画期的なファンドレイジングであったが、同時にある危うさもはらんでいると指摘します。
それは、90年代後半、地域・場というものが、グローバリゼーションの流れの中で崩壊していき、農村は廃れ、商店街がシャッター街と化しました。だからこそ、アートがそれら「場」に入っていった。つまり、英国などのように、「人」「当事者」を中心としたコミュニティアートとは違い、「場」を起点とする地域系アートになっているというものです。場を中心にすることによって、個々人の生きる力のエンパワメントではなく、インフラ的な側面や動員数、経済的活性というものに縛られるがために、そこで行われるアートが、地域住民を「巻き込む」という言葉に象徴されるように、ある垂直軸にアートがあって、人を集めることによるグループダイナミクスを生み出していくという流れになるだろうと予測されます。まさに、「ヨサコイ」や「ガンダム」「鉄人28号」となんら変わることがない、場を拠り所にしたアートのパラドックスへとつながります。
そうだ、もう一度人を中心に考えよう、そういう想いがわき起こります。

そして核論である、カウンターメディア/インディメディアの紹介と、藤井さん自身のアクティビティの話しへとうつります。第6回のイルコモンズさんの話しともつながりますが、寛容さの失われた社会において、メディアがができることについて言及されます。
時代の象徴として2001年の9.11を上げることが多いですが、日本では95年の地下鉄サリン事件が大きいのではないかと思うのですが、とくに都会では、いつのまにか不特定多数の人々が群れることに恐れ、相互に極度に監視するようになっています。

二つの映像を紹介されます。
ひとつはニュース映像。そしてもう一つが、自分たちで撮った映像です。
これは、ワーキングプアと言われる年収200万円以下の生活状況から抜け出せない人々が、ネットを通じて渋谷に集まり、麻生首相の家を見に行こうというものを取り扱った映像です。ワーキングプアの人が集まると、そこにはすでに40人ほどの警察がおり、警察との交渉の結果、麻生邸まで行って、5にんづつまで順番に見て良いという許可がとられました。
しかし、そこでマスメディアのニュースに見られる映像と、youtubeにアップされた映像とに大きな違いが生じます。
警察発表によるマスコミのニュースは、集まった人々が警察官に対して暴行を働き、3名が逮捕されたというものです。ですが、youtubeにアップされた映像には、暴行をしたのは警察官の側であり、不当な逮捕がされていると訴えるものです。
当時youtubeのアクセス数は相当数にのぼり、その結果、海外メディアがリークし、共同通信が海外発の日本のニュースとしてこの出来事を紹介、各地の新聞が取り上げ、国会問題にも発展したということが起こりました。そうして、この不当な逮捕劇が逆転していくという、カウンターメディアの力がまさに示された出来事です。
藤井さんは「反撃」という言葉をわざと使い、政治的な意図や考え方をもって、政治や体制に対して反撃・抵抗していくメディアのことをカウンターメディアとして紹介されました。

これら映像のほか、第1回で五野井さんが触れられた、宮下公園のナイキ公園化問題を紹介。藤井さんは、ナイキという象徴的なグローバル企業の活動に隠れてしまいがちだが、民主的な手続きを経ずにこの決定がなされたという渋谷区議会の情報をリークしたことが活動に参加することの動機だと説明。
ナイキポリティクスの名前で、ナイキ問題を取り上げるさまざまな映像がyoutubeにアップされていますが、それらのいくつかを紹介していただきました。
インディメディアとしては、行政やナイキに向けたものでもあり、むしろナイキ問題に興味のある人に向けた水平的なコミュニティメディアとしてこれらの活動をしているということです。

最後に、宮下公園で行われたナイキオーガナイズのマラソン大会の映像があります。
この映像は、すべて逆廻しにされています。さかさまに戻っていくと、そこに映る映像は、ベニヤや段ボール、ブルーシートで創られたホームレスの家に、撤去警告の張り紙をする行政職員の姿が映し出されます。

この映像は、ホームレス自身に小さなカメラを渡して使い方をWSで教えて記録してもらった映像だそう。
藤井さんはいま、このようなコラボレーション自体に興味をもっており、協働的なプロセス自体を通して、現状に対してNOと、脱構築するためにNOと言うことによって生きる、新しい自分の生き方、道を開いていくような活動に興味があるといいます。

いまの垂直型の美術教育は、はたして水平型の協というものを持ち得るのだろうか、そう疑問を呈して今回の講義を終えました。
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by artsnpolink | 2009-11-29 19:34 | ●学校・講座
AAF学校第六回「アクティビズムと芸術+ワークショップ」
AAF学校2009
第六回「アクティビズムと芸術+ワークショップ」
講師 小田マサノリ/イルコモンズさん

今回の講座は、東京都の「東京都安全・安心まちづくり条例」を読むことから始まりました。
ちなみに、昨日10月12日は「安全・安心の日」だったそう。
この安全・安心条例では、これまで犯罪にならなかったことが処罰の対象となります。今後、さまざまな都市に波及していくことも考えられます。
浅草の公園ですら、看板に『許可の無い演奏は禁止します』とありました。公園なのに演奏しちゃダメなの?あの楽しげな、おじいちゃんバンド(レパートリーは、「あこがれのハワイ航路」ほか懐メロ♪)は、都政にとって害をなし、安全・安心ではないということでしょうか。それとも著作権違反とか?《審査》に通った、「ヘブン・アーティスト」じゃないと、公園で練習すらもできない?
まさに、奪われる自由時間、失う寛容性。。。

イルコモンズさんは、この条例に疑問を呈します。街がどうあるべきかは人によって考え方は違うでしょう、子どもが誘拐されたり、放火事件があったりすることも事実ニュースになっています。でも、監視カメラを増やすことや、上から圧力で果たして犯罪が抑止できるのでしょうか?安全・安心といううたい文句によって、街から失われてしまう寛容性、これを取り戻すにはどういう方法があるでしょうか、と。

ここで、当日用に作成されたビラを紹介し、夏目漱石の「草枕」を引用されました。
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「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りに、ちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は、人の世よりもなお住みにくかろう。越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。」

このビラには、黄色い文字で「リクレーム・ザ・トレランス」とあります。
リクレームは「取り戻す」、トレランスは「寛容」ということ。9.11以降、NYをはじめテロが連続しました。以後、ヘンな行動はテロと読み替えられ、犯罪ではないかと疑われ、他人や異質な人に対して非常に疑心暗鬼に陥っています。それを「トレランス・ゼロの時代」と呼ぶそうですが、その寛容性が失われた時代に生きる我々に、寛容性を取り戻すことができるかと問いかけ、トレランス0の時代をさまざまなやり方で変えようとしている人々が世界にはたくさんいます。それが今回紹介するアクティビストたちです。

この「リクレーム・ザ・トレランス」は、「リクレーム・ザ・ストリート」という運動にちなんでいるそうです。この運動は、1991年にはじまり、94年に大きなムーブメントとなりました。1994年、英国議会が、ムーブメントになりつつあったレイヴ・カルチャーを脅威に感じ、それを防止することを目的(大衆の"群衆化"の禁止?)としたCJA法案を可決しました。それに対して猛然と反対する運動として、ロンドンの路上からはじまったリクレーム・ザ・ストリートが繰り広げられました。

では、いったい何からストリートを取り戻すのか。
それは、法律への反対という意味のほかに、ひとつは車中心の街づくりに対して、そしてもうひとつは、大都市に顕著に見られるように、グローバル企業の広告、店舗に埋め尽くされたストリートから公共空間を取り戻すということの意味が込められているといいます。

これら映像にくわえ、WTO(世界貿易機構)やG8サミットでの抗議行動での映像を紹介、初回の五野井さんの会でも紹介されていたフラッシュモブなど、数々のアクティヴィストたちの実際の映像を紹介していただきました。

これまでのシュプレヒコールをあげて行進するデモの形態から現代のマーチングバンドやパペットを使ったり、ダンスを繰り広げるような祝祭的なスタイルへの変遷をたどります。
運動スタイル転換の契機となったのは、1999年11月にあったシアトル(米)でのWTOに反対する抗議行動だそう。
映像では、黒い衣装をきたマーチングバンドが楽しそうにリズミカルな音楽をかなでます。祝祭的な雰囲気のなか、さまざまな工夫でパフォーマンス風の抗議行動を繰り広げます。これら抗議行動には、さまざまなアクティヴィストが集います。戦争反対、労働運動、環境運動、女性解放、同性愛権利、人権団体などなど、さまざまな主張があります。それらはブロックといって、互いに住み分け衝突を避ける仕組みが導入され、カラーリングされています。イエローは、特定の主義主張を持たず、過激な行動はとらないブロック。レッドは、共産主義、グリーンはエコロジスト、ブラックはアナーキスト、ピンクは同性愛などなど、互いに干渉しすぎないようにルールづくりがあったり、配慮がされているそうです。
そして、自らインディペンデントなメディアをつくり、YouTubeなどを駆使して活動を世界に発信していきます。
このシアトルでの抗議行動は大成功し、実際にWTOの会議は開会式すら開かれることなく終わっています。
これを契機として、アクティヴィストの抗議行動は、これら祝祭性を帯びた新しい世代の行動スタイルが定着します。

でも、このブロックという仕組みは、みんなが力を合わせるという側面を失うことになりました。そして、2003年、メキシコのカンクンでのWTO会議では、ブロックを維持しながらも、失ってしまったみんなで力を合わせて行動するということが試みられます。それは、バリケードに長い綱をかけ、みんなで綱引きのように引っ張ってバリケードを破壊するという行為です。ブルドーザーのようなマシーンを使わず、人の手によって、連帯して行動するということが再度取り入れられていきます。

2005年のスコットランドのG8サミットでも、アクティヴィストたちを盛り上げたのは、マーチングバンド。このようなバンドを、ラディカル・マーチングバンドというそうで、アメリカのハングリーマーチング・バンドなどが有名だそうです。
後半は、ドラムサークルの映像を紹介し、アナーキスト・ドラム・ギャザリングをとりあげました。
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反グローバリズムにおいて、さまざまな言語をもつ人々が世界中から集まります。
英語が必ずしも通じるわけでもありません。
その中で、ドラムという誰にでもできる楽器をつかい、太鼓をたたきながら連帯感をうみだす、音を通じた合意形成を体験する、それがドラムサークルのワークショップです。
単にドラムといってもさまざまな楽器があります。それぞれ個々のドラムがもつ文化的背景を尊重しつつ、そこから自由に奏でるドラムサークルを体験します。
そこでのファシリテーションの方法や、小さな音を弱い音を聞き、大きな音の中で埋もれてしまう小さな太鼓の音をもり立てて行くこと、それが大切だということに触れます。そして、ドラムサークル中、「もっともゆっくり歩むものに足並みをそろえて進む」という、サバティスト(メキシコ)の一節を紹介、いまの効率優先の社会、議会制民主主義の多数決の原理、弱者切り捨ての構造、そういうものの不平等をドラムサークルを通じて体感していきます。

最後に、シアトルの抗議行動で逮捕された刑務所の前に集まり、支援者たちが祝祭的なパーティーをひらいた映像が流れました。そこでのベトナム反戦運動家による新しい世代のアクティヴィストたちを祝う、トム・ヘイデンのスピーチは、たいへん感動しました。
Tom Hayden New Generation of Activists


そして、アートの切り口としての今回のワークショップを語られ、第2回AAF学校で、新川氏が紹介したと同じく、ヨーゼフ・ボイスの一節を紹介し、ドラムサークルの余韻さめやらぬ中、今回の講座が終了しました。
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「すべての人間が芸術家であるということは、すべての人間に本当の能力があるということです。なにも音楽をつくったりする必要はないのです。例えば、今日の現代的な飛行機に乗り込みますと、この飛行機を作るためにどれほどの発明の才能が必要であったか、どれほどの創造力、クリエィティヴな力が必要であったかということがすぐに解ると思います。その意味ですべての人間が芸術家だと私は言っているのです。昔のドイツ語の表現ですが、医学を医術、農業を栽培術といったりしましたが、その術(クンスト)が必要なわけです。もちろん芸術でもその術を使わなければなりません。いわゆる現代の近代以降は芸術の概念を非常に高度な精神行為に美化してしまいました。昔は芸術という言葉はもっと技術とかの概念に近いもので、日常的に使えるということを本能的に予感できる言葉でした。その意味で芸術大学とか、あるいは画廊とかいうろくでもない、けつの穴みたなところで営まれているものだけが芸術だと思ってはならないわけです。」ヨーゼフ・ボイス「草月ホール対話集会」
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by artsnpolink | 2009-10-13 15:51 | ●学校・講座
AAF学校第五回「芸術とマルチチュード」
AAF学校2009
第五回「芸術とマルチチュード」
講師 廣瀬 純さん(龍谷大学)

廣瀬さんの講義は、ヒッチコックの「鳥(原題"the Birds")」と、小津安二郎の「おはよう」という二つの映画作品を読み解きながら、グローバルなコミュニケーションにおけるネットワークから逃れ、いかにして慎み深い《普通の》身体を獲得できるか。そして、大衆が連帯することで、巨大な(もはや暗黙の)構造に対していかに立ち向かうことができるかということを考察する機会となりました。(嗚呼、難解・苦笑)
「アート」や「アーティスト」というアイデンティティから結局のところ逃れていない僕たちが、地域に入りこんで大衆皆創造主であり主人公であると投げかけたところで、それはもはやグローバルなコミュニケーションのもつ権力そのものを、無自覚に行使しているにすぎないのではないかという、第3回目の講座と同じ問題が、ふたたび提起されたような気がします。


「万国の鳥たちよ団結せよ、失うものは羽しかない」

ヒッチコックのコメントの中に「ふつうの鳥が集まることで怖くなる」という一節があります。カモメちゃんとか雀ちゃんとか、鳩子ちゃんポッポとか、かわいらしい童謡や哀愁漂う昭和歌謡になるような、ふつうの鳥さんたちの、《普通の》イメージの量的な蓄積がなんらかの新たな飛躍をうみだしているということです。

マルクスとエンゲルスの共産党宣言の最後にある、「万国のプロレタリアよ、団結せよ」のパロディでもある「万国の鳥たちよ、団結せよ。失うものは羽しかない。」という言葉の中には、2つの意味が見いだせるそうです。
ひとつは、そのもの羽を失うということ。それは、色鮮やかなカナリアの羽がなくなるとき、おなじく羽を失った雀とほとんど見分けがつかないという、日常的な鳥がさらに普通の、狭義の意味で普通の鳥になりながら、同時に恐ろしいヒッチコックの鳥になるということを意味しているといいます。
つぎに、万国の鳥たちが団結するという一文です。ここで重要なことは、この映画は確かに「万国の鳥たちが団結する」のではありますが、決してレーニン鳥のような、親分鳥がいて、万国の鳥たちに呼びかけているわけではないというところです。

ここでヒッチコックは、全世界の鳥の、いわばグローバルなネットワークがつくりだす集団性とその身体性を問題にしています。
一方、小津の「おはよう」という作品ではどうでしょう。
おなじように、グローバルなネットワークが問題になります。ただ、言語活動レベルでのネットワーク、「おはよう」と言い合うことでの人間のコミュニケーションネットワークを撮影しようとしています。ヒッチコックの身体性に比較すると、いわば脳的です。
さらには、「おはよう」と言い続けると「おはよう」がなんなんだか、誰が言ってるんだかよくわからなくなるという、おはようという言葉の物理的・物質的な響きが際立って来るという、音がほとんど肢体から遊離して、音として響くような問題をも提起しており、そこから立ち上がる新たなネットワークが見てとれるといいます。(嗚呼、難解)
小津の話しを「万国の鳥たちよ団結せよ、失うものは羽しかない」とおなじだとすると、どの登場人物も、みな一様に普通の人として、グローバルなコミュニケーション・ネットワークのエージェントとして、普通の烏合の衆のひとりとして描かれており、どの人も同じような《人》として登場します。ここでも、外部からそのネットワークを指導するようなレーニンのような人は出てこないのです。

この「おはよう」という映画の中には、小学生の兄弟が出てきます。彼らは、我が家にもテレビを買ってほしいと言って子どもながらにいろいろ画策します。最終的には、一切しゃべらないということで脅しをかけます。聞かれても答えない、お口のストライキ。
この映画では、しゃべらないことが権利要求の手段として意図的に描かれているそうです。なぜなら、ある種の労働は、すべて言語に結びついて行われるからだと廣瀬さんは提起します。
言語活動のグローバルなネットワークを描く作品の中で、しゃべらないというストライキ活動によって、言語活動のネットワークを支配して自分たちの思い通りに導こうとしています。
この、子どもたちによる反動的な作戦は、つぎの二つを意味するといいます。
ひとつは、言語活動のグローバルなネットワークからは外には出られないということ。もうひとつは、外に出て、ネットワーク全体を支配しようとすることはできないということです。

ほかにもこの映画の中の重要なシークエンスとして、オナラのシーンも出てきます。
「ブー」という、なんだか妙ちくりんなリアルじゃないオナラの音が鳴ります。技術的レベルでは、もっとリアルなオナラの音を再現できたはずですが、ここでは、どこで鳴ってるのやらわからないような、どうも宙に浮遊しているような、オナラでありながらオナラでないものに聞こえる音が出てきます。
そして、河川敷でラヂオ体操をしながらリズミカルにオナラをしていると、いつのまにやらホルンの音になって音楽の中に入っていくのです。ブーッブブブー♪
オナラのブゥーという音は、あくまでもどこかオナラの音に留まっています。決してグローバルなネットワークの中から脱出して、外に出てしまったわけではありません。だけれども、なんだかヘンな軽さとともに、違う時間の流れを生きているようなところがあります。小津が問題にしているのは、とりあえずこのへんからやってみたらどうでしょう、ということだと廣瀬さんは指摘します。(ん?)

んまぁ、で、ついに!クライマックスでは家にテレビがやってきます!
ですが、子どもたちのストライキが実ったからという理由でもなんでもなければ、ネットワークの中の誰かほかの意志によってでもありません。廣瀬さん曰く、匿名的な動きの中から、温情のようにしてしかテレビが家にやってきませんとのこと。(嗚呼、難解)
この、テレビが我が家にやってきたというクライマックスの映像は、極めて慎ましやかに描かれます。やっとこさ念願のテレビがやってきたというのに、ドラえもんのように「じゃじゃーん、テレビィー」とだみ声で紹介するわけでもありません。薄暗い廊下にぽつんと「ナショナル」と書かれた段ボール箱があるにすぎません(テレビ本体は映らない)。そして、遠く廊下の突き当たりの部屋で子どもたちが、テレビがやって来たことを喜ぶほかに、その手前の電気が消された部屋、お父さんお母さんがご飯を食べていると思われる明かりの灯った部屋、さらに夜の寂しさ漂う玄関の存在が同時にすべて描かれます。テレビだけがヌキで描かれているわけではないんです。
それぞれの部屋の中で、玄関の外で、それぞれ別の時間が流れている感じがします。テレビの箱すらも動くことなく違う時間を生きています。このような慎み深さというか、奥手というか、軽さというようなことこそが出発点になりはしないかと小津自身が考えていたのではないかと廣瀬さんは言います。

このようにグローバルなネットワークから僕たちは脱却できていないにも関わらず、映画館の観客すらも巻き込むグローバルなネットワークという、ヒッチコック流の剰余価値の生産に組み込まれた場合に、どうやってその生産を拒否することができるのか。はたまたそこに選択の余地はあるのでしょうか。
他方、小津映画でみられたように、このテレビ箱の有り様とオナラの有り様とはかなり共通点があり、どちらもヒッチコックと同じくグローバルなネットワークの中に書き込まれたままになっています。そういう意味で、ある種の剰余価値の生産に動員されていることは、まさにその通りです。しかしながら、それと同時に、別の時間の流れを生きているようなところがあります。このように非常に慎み深いあり方で、なんらかのことが企てられています。
「厚かましさこそが革命であるかのように語られてきたけれど、ひょっとしたらこう考えてもいい。いま、この世の中は、厚かましい。こういう厚かましい世界の中で、慎み深さが革命的でないはずがない、そういうことを教えてくれます、それが僕がしゃべりたかったことです。」と、そう言って廣瀬さんの講座は終了しました。


次回のAAF学校は、廣瀬さん流に言うところの「大衆が即前衛となる」ことをワークショップを通して疑似体験してみます。ワオ!
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by artsnpolink | 2009-10-06 18:24 | ●学校・講座
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